2017年3月11日土曜日

優しい記憶

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消費する時間への空想が大きいほど、人は前向きになります。周囲を巻き込む強い力です。

経過した時間への感動が大きいほど、人は優しくなれるような気がします。自分の記憶を、今の自分が、ひとり、思うということです。

ひとりで、自分の記憶を読み返すことは、優しくありたいと願う意思です。

「みなを」の楽曲「やさしい午後」に、次のような一節があります。
ささやかな時間は
静かに流れゆく
気づかなかったけれど
春はそこに来ていた
時間は止まりません。過ぎ去っていきます。
人は、優しくなっていきます。今年もまた、あの季節が来ます。

2017年1月29日日曜日

実験や、解釈や、魅惑の憧れや

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数学と哲学の魅力は、素朴でないところ、抽象的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力から、私たちの身を守ります。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。

書籍『数学者の哲学+哲学者の数学』(砂田 利一、長岡 亮介、野家 啓一)に、興味深い話題がありました。
引用いたします。
私は、数学の哲学っていうのは、何故に大切かっていうと、やはり素朴経験論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないって思うからなんですね。
素朴経験論と素朴唯物論を打ち破る、という指摘です。
われわれは常にその素朴唯物論と素朴経験論の、いわば攻撃にさらされてるわけですね。ちょっと油断すると、そこに攻め込まれる。
私たちは、素朴唯物論と素朴経験論の、攻撃にさらされているそうです。攻撃を打ち破る手段として、数学があると、発言者の長岡さんは言われます。

素朴唯物論と素朴経験論なるものについて、同書では、陽に定義はなかったかと思います。どうも、このあたりには似た言葉が多く、また、話の流れに依るところも大きくあり、私にはややこしく感じます。
文脈から、実在論、特に素朴実在論などと呼ばれるものの話題であると、私は理解しました。非常に素直に言うなら、世界が、自分の目で見えた通りに実在している、とする考え方のことでしょうか。

素朴唯物論と素朴経験論は、戦わなくてはならない、悪いものであることが、基本的な前提です。端的に言えば、間違っているためです。

反例を挙げるまでもないでしょうか。
目に映るものは、世界の正しい様相とは異なっています。自分の目で見たということは、何かの説得力を示しません。
経験したことは、世界の正しい理解とは異なっています。自分で経験したということは、何かの説得力を示しません。

人間の認知的な偏りから説明するのもよいでしょう。人間の目の、構造の問題でも構いません。どれほど慎重に考察しても、素朴唯物論と素朴経験論は、間違っています。

それでいて、自分の目で見たから間違いない、自分で経験しなければ物事は理解できない、といった言葉には、魅惑的な説得力があります。間違っているにも関わらずです。攻撃にさらされているわけです。

誘惑に打ち勝つための力は、広く言えば、考えることになりそうです。人間の経験より、論理を信頼しようとすることです。

考えることについて定めようとすると、いちばん無理のないテーマが、哲学と数学を学ぶこと、実践することになるように、感じています。
数学は、個人の物理的な経験が入る余地のない、数少ないテーマです。同書『数学者の哲学+哲学者の数学』のタイトルから察せられる通り、哲学も、同様でしょう。経験が当てにならない以上、経験が入る余地がないというのは、大変に安全です。経験や、実験や、解釈や、判断などと関係するものでは、不安なのです。

こちらの記事を読みました。

メモすることに馴染むための「ミニマム・メモ術」 | シゴタノ!

素晴らしい記事です。日常的にメモをとることを、新しい習慣を身につけることととらえ、難しさを説きます。

メモすることに限らず、新しい習慣は、身につく前には価値を体感することができません。次のように言われます。
理性において理解することはできても、その効果を体感することは不可能なのです。
新しい習慣を身につけることには、名状しがたい、独特の難しさがあります。それなのに、悲しいかな、習慣に意義を感じられないのなら、実現は困難です。
この意味で、習慣を身につけてしまった人、いわゆる達人からのアドバイスは、役に立ちません。達人は、習慣の意義をじゅうぶんに体感しているためです。

よくある話ではあります。先生と生徒、などの構図があったときには、避けて通れない話題です。

記事は、ここに解決策をもたらしたところが、慧眼です。
メモすること、ノートを書くことに直接的な意義を感じなくても、それをすることで「あのメモ術をマスターできる」「あのノート術を使いこなせる」という代替的な意義を作り出してくれるのです。
メモすること、そのものの意義は体感できなくても、メモ術なるものを習得できるのだと思えることが、意義になるということです。

憧れと呼ばれるもののことだと、私は理解しました。

新しいことを学ぶときに、達人の助言は参考になりにくいものです。意義を感じられないためです。一方で、達人の技術といいますか、達人が技術を使う姿が、参考になります。憧れという形です。

具体的な手順と、それをなす意義は、自身で組み上げることも、不可能ではないような気がします。助言がなくても、一人でなんとかなるかもしれない、ということです。憧れの方は、一人で立ち上げるのは、かなり難しいものがあります。

憧れが、新しい何かを学ぶことを牽引してくれるのなら、やはり、達人の存在は不可欠です。助言が役に立たなくても、達人は何かを伝えているのです。

後に続く者に何かを伝えるということには、なるほどいろいろな形があるようです。

憧れによって、学ぶことと、試行錯誤を牽引されると、気づけば、具体的な手順や、それをなす意義を身につけていることでしょう。学び始める以前には、すなわち、達人の助言とは、かけ離れた内容になるはずです。

達人は他人だからです。憧れに牽引される以前の自分も、やはり他人だからです。
意義とか、目的を感じる、私というものが変化していきます。意義も変わっていくのが自然です。

意義と目的が、定められるものではなく、感じられるものであるというのは、なかなかによい結論です。

さて、ここまで、二つの話題を見てきました。

一つめは、自分で経験したということが、何かの説得力を示さないことです。
二つめは、達人の助言からは、それをなす意義を体験できないということです。

経験は間違っているのに、体験しないと意義を感じられません。
経験と、体験とで、言葉は違えど、対照的な用法となりました。前者は否定で、後者は肯定です。

前者は、個人的でないものについて、言及しています。説得力とは、個人の感覚とは関係のないところにあるものです。個人的な経験は、何かの説得力に寄与しません。
後者は、個人的なものに言及しています。憧れを感じて、学ぼうと思えるのは、個人の感覚に閉じることです。

経験というものには、役に立つところと、役に立たないところがあるようです。
個人の感覚に閉じている間にだけ、経験が役に立ちます。

憧れによって、学ぶことを推し進めると、当初には思いもよらなかった意義に至ります。意義とは、個人の経験よりも抽象的で、説得力のあるものです。素朴唯物論の攻撃から身を守る、健全な説得力です。

数学と哲学とが、素朴唯物論から身を守る楯になるのは、個人の経験よりも抽象的なものだからに違いありません。

当初に思いもよらなかった、抽象的な意義は、また、新しい形で、学ぶことと、試行錯誤を牽引するのでしょう。素晴らしいことです。意義を感じる、私というものが、変化しているためです。
新しい形とは、きっと、個人の素朴な経験でありながら、素朴唯物論の攻撃に負けないものになるはずです。

こうして、数学と哲学を学ぶことでさえ、個人の素朴な経験に戻ってきました。やはり、思いもよらないことです。

数学と哲学の魅力は、素朴なところ、具体的なところにあります。奇妙に魅惑的な説得力に、私たちの身を晒します。


終わりに


習慣に意義を感じられないなら、身につけるのは難しい、と書いたところがありました。書いておいて何ですが、本当なのでしょうか。

そもそも、習慣とは身につけるものなのでしょうか。
自分で経験した疑問です。

2016年12月31日土曜日

three albums of the year (2016版)

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自分で自分のことを知るのは、難しいものです。自分もまた他人だからでしょう。

私は、自分が、音楽と読書を好きかどうか、定かではありません。
他方で、音楽好きと、読書好きとして、日々を生きることに決めています。

音楽も、読書も、大変に深い世界を湛えています。自分の本当に好きなものを探求するよりも、ずっと、興味深い世界です。

自分の本当に好きなもの、などというものが、私には、あまり興味深く思えないこともあります。

過去を顧みることも、未来を展望することも、自然と、少なくなります。音楽好きである、読書好きである、というのは、繰り返す日々の総称であるためです。
固定の性質を描写するものではないのです。

年末に感慨はありませんが、習慣があります。

2016年にも、たくさんの素晴らしい音楽に出会いました。経験上、一年に一度くらいで、良かった音楽アルバムを三枚ほど選ぶようにすると、ちょうど、よいコレクションができるようです。

二十枚、三十枚と、選ぶこともできます。
その中で、納得いく三枚だけを選ぶことには、知性の存在を感じます。人間が、何かに取って代わられることのない領域です。知性によるコレクションです。

何の話かといいますと、私は毎年、その年でよかった音楽アルバムを、三枚選ぶことにしているのです。

さっそく、始めます。



『Collapse』 / Seiho

2016年の、大きな出会いの一枚です。本当に、私が出会ったことのなかった音楽です。音楽も、私の感覚も、間違いなく変化していることを知らしめてくれました。きっと、よい変化です。

私の感覚はさておき、音楽も、変化しているのです。音楽好きであることを、止められないわけです。

Seihoさんの音楽を、才能と呼ぶのは容易でしょう。私は、思想と呼びたいと思います。



『The Odyssey』 / Aybee

私の好きな音楽です。好きだと思っているのに、近年、出会うことのなかった音楽です。
空間を占める雰囲気と、手の込んでいるところがよいです。

手が込んでいて、音符の順列組み合わせではできていない音楽に、私は惹かれます。



『ULTRA』 / SCHAFT

インダストリアルという表現を、最近、耳にしなくなったような気がします。気のせいでしょうか。

インダストリアルな一枚です。
格好良いハードロックであると、私が、呼びたいものです。

それでいて、ハードロックよりもインダストリアルなところが、格好良いところです。
私が、自分が好きだと知らなかった音楽です。


終わりに


2016年には、いくつか、印象に残る出来事がありました。冨田勲さん、川島道行さん(BOOM BOOM SATELLITES)、森岡賢さん(minus(-)、SOFT BALLET)、のことです。
過去を振り返らずにいては、もう、この方々の音楽を聴くことができないように、思います。

少し考えて、違ったことに気づきました。

この方々が作り上げた音楽があります。作品です。
作品は、私の手元にあります。私が、私の感覚で聴いて、構わないものです。

私の日常のためのものです。過去に閉じ込めることはないのです。作品を完成させて、残すというのは、すごいことです。
言葉にならないほどの、圧倒的な気づきでした。

私は日常が好きです。

こちらは、私が、何度も何度も紹介させていただいている記事です。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

この文章をお読みの方も、そうでない方も、それから、私と関わりのあった方も、そうでない方も、皆さま、私の好きな日常を少しずつ支えてくださり、ありがとうございました。

皆さまのおかげで、私の好きな日常があります。

これからも、よろしくお願いいたします。

2016年12月25日日曜日

2016年の<びっくら本> #mybooks2016

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本を紹介するというのは、よいものです。特に、リストになっていて、読んだ人の言葉が添えられていると、よりよいです。

本はたくさんあるからです。

読みたい本を、すべて読むことはできません。買うこともできません。自明なようで、しかし、この事実に、本当に直面したことがあるかどうかは、ひとつのターニング・ポイントといえます。
家にある本、実際に読む本とは別に、読みたい本の管理をするというのは、小さなことではありません。

何の憂いもなく、読みたい本のリストを眺めるのは、気分のよいものです。リストに載る読みたい本は、多ければ多いほどよいでしょう。行動に直結するものでなくてよいためです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 【企画】2016年の<びっくら本>を募集します #mybooks2016

本を紹介するというのは、よいものです。本はたくさんあるからです。
私も、十冊の本を選んでみます。



『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス)

生物にとって、利己的な遺伝子の支配が強いのだという気づきは、発想の素晴らしさによるものといえます。
一方で、よいものを、単なる発想の素晴らしさに還元したくない気持ちが、私には、いつもあります。

積み重ねた説明も、例示も、きっと大切です。説明や例示が、また、発想に影響を与えます。影響された発想は、また、新しい説明と例示を必要とします。

素晴らしい発想というのは、単なる素晴らしい発想として記述できるものはないはずです。私は信じています。

私が思う、『利己的な遺伝子』のことです。

人間の叡智が、想定よりも大したものではなかったと、明らかになるところには、いつも、感動があります。畏敬というべきでしょうか。



『数学ガール/ガロア理論』(結城 浩)

群、体、それからガロア理論には、新しい数学という雰囲気があり、どきどきします。独特の雰囲気です。
以前の時代にまるで存在しなかったもの、ではありません。似た考え方はありました。《二つの世界が接するときは、いつもうれしい》ものです。

彼の数学を真剣に追いかけていると、涙なしには読めない本です。



『知的トレーニングの技術』(花村 太郎)

たとえば、考えること、学ぶことを続ける人生であろうと、私たちは、志すことがあります。知的生産と呼んでもよいかもしれません。
考えること、学ぶこと、とは、ひとつの方針です。人間は、抽象的に行動することはできません。私はボトムアップを信じるので、はじめから抽象的に考えることもできません。

ボトムアップな私のための本です。
そして、私たちの大切な志のための本です。



『アウトライナー実践入門』(Tak.)

様々な場面で、生きる勇気をもらう、という表現に出会うことがあります。素晴らしいことです。私にも経験があったかもしれません。
勇気がなくても、自然に、平然と生きられるのも、またよいことです。様々な生き方があります。

私は、『アウトライナー実践入門』から、考える勇気をもらいました。生きる勇気に似ているものでしょうか。
考えながら書いても、書きながら考えても、よいのです。他人のために、伝わるように書いてみて、はじめて考えられることがあります。自分もまた他人だからです。

トップダウンとボトムアップの繰り返しで、生まれるものがあります。
まるで、何かのようです。



『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール)

2016年、私が新たに至った思想のひとつに、コレクションについてがあります。自分が本当に納得のいくものを、ひとまとめにして、集めるということです。

自分だけの基準で集められたコレクションです。
説明のつかないものです。時間をかけたものです。知性ある人類にしか、成しえないことです。

コレクションと知性について、思いを馳せることになった本です。



『物書きがコンピュータに出会うとき』(奥出 直人)

困惑するほどに壮大な世界が、文章を書くことには、内包されています。私が、読者として目にする文章の背後には、試行錯誤がありました。

文章を書くのは、どうして、かように大変なことなのでしょうか。

それでいて、『物書きがコンピュータに出会うとき』は、文章を書くことが大変でよかったと、感じられる本です。文章を簡単に書けてしまう人にはたどり着かないような、楽しさがあります。



『エリック・ホッファー自伝―構想された真実』(エリック・ホッファー)

エリック・ホッファーの言葉は、私に、妙に共鳴するところがあります。
人が、技術を身につけることについてです。言葉にならない深層に、機械では代替できない、大切なことがあります。

他人の仕事を総括するのではなく、自分で手を動かすことを指向する方には、私と同じ共鳴があると、想像します。



『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)

文学は、世界と、世界の終わりを描くことができます。言葉にならない感慨を描くことができます。
心とか、神秘ではなくて、単に、言葉にならないということです。不思議なもので、文学にしか果たすことのできない機能があります。

妙な文章になりました。当然のことながら、手記です。



『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン)

それまで気づかなかったことに、気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。発見することの感動は、いつも、非論理的で、綺麗なものです。数学は、気づくことの綺麗さを、シャープに見せてくれる例です。

数学のような世界でも、論理の最果てには、跳躍のドラマがあります。積み重ねた論理も、最果ての跳躍も、どちらも美しいものです。

跳躍のドラマに、人間が、感動するようになっているというのは、不思議なことです。
私は、不思議さを解き明かす、真に驚くべき説明を持っていますが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできません。



『幸福論』(アラン)

私が2016年に到達した、大切な思想が、もう一つありました。
人が考えることは、体調や、姿勢や、環境が、かなりの部分を決定しています。私にとって、素晴らしい気づきでした。人類の叡智は、思ったよりも、大したことはなかったのです。感動します。

人の心に、過剰な神秘を感じることはありません。肥大した意味に、押しつぶされることはありません。私の幸福論です。


終わりに


今年も、多くの素晴らしい本に出会うことができました。
十冊のリストに選ばれなかった本も、たくさんあります。

選ばなかった本の存在が、十冊のリストを、豊かにしているような気がします。豊かになっていれば、嬉しいです。

本はたくさんあるからです。