2015年10月29日木曜日

思いもよらない高い山

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寒くなってくると、風邪をひきやすくなります。もう、すっかり冬です。寒いのです。
私は夏が好きですので、八月が終わったあたりから、次の七月が待ち遠しくなったりします。

思えば、私は、あまり夏風邪をひきません。馬鹿でなかったようです。ロックバンド「シド」の楽曲『夏恋』によれば、夏風邪は、見た目から入る恋と同じくらい、たちが悪いそうです。そんなものなのでしょうか。

あにはからんや、寒くなると、詮無いことを考えてしまいます。

どこかで書いたことがあったかと思います。
私が一番信用していないのは、自分が考えたことです。次に信用していないのは、自分が話したことです。一番信用していると思えるのが、自分が書いたことです。

ショーペンハウアーの意見を尊重すると、読書とは、他人にものを考えてもらう行為だということです。素晴らしい洞察でしょう。心から同意できます。
私は自分で考えたことを信用していませんので、他人に考えてもらうのは、大変によいことです。たくさんの本を読んで、たくさんの考えに触れたいと思っています。

かくして、私は読書が好きです。

こちらの記事を読みました。

「そういうもの」のうちのひとつについて - iPhoneと本と数学となんやかんやと

素晴らしい記事です。
私たちの好きな数学の話が、次のようにして、始まります。
長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
何も感じずにはいられない、記事です。
いつから数学が好きなのか、と考えてみると、小学校のころにさかのぼります。
私はどうでしょうか。どのようにして、数学を好きになったのでしょうか。

私の経験を書きます。事実は、経験は、語られることによって、歴史となります。外史であり、世間話でもあります。正史ではないという意味です。
語られた言葉は、もとい、ありとあらゆる言葉は、不自然な抽象に他なりません。だからこそ、興味深い世間話を、伝説を、民話を、形づくることができます。宮沢賢治の意見を尊重するなら、私という存在は、現象なのです。

不自然な抽象は、現象を揺るがすことがあります。
本や、文章を読むことは、面白いものなのです。言葉だからです。

自分が数学を好きかどうか、自分で判定しなければならないことがあります。とても、稀なことです。大事なこととは思えません。こうして、私は、自己紹介のようなものを好まなくなります。
多くの人にとって、高校生の中ほどの時分がそうでしょう。得体の知れないことに、文系、理系というものの決定を迫られるときです。私もそうでした。

当時の私は、現国と、古典と、英語が好きでした。得意でもありました。数学は、そう、嫌いということはありません。
決定を迫られた私は、理系の方を選択することになります。理由は、今となっては定かではありません。何となく、現国より、数学の方が、底知れない感じがしたような気がします。

顧みても、始まりの地点には、確かな現象はなかったようです。
それでいて、二人の忘れられない数学の先生に、高校生の私は出会うことになります。

あるときのことです。数学の授業は、漸化式の単元にさしかかりました。
私たち生徒は、漸化式なる、妙に魅力的な熟語に初めて出会ったところです。

数学の先生は、黒板に次のような式を書きました。

A(n+1) = f(A(n))

今思えば、明らかに、漸化式の標準的な表現です。不思議なことなど何もありません。

いよいよ、先生が話されます。
いわく、「ここに書いた式は、これまで勉強してきた数式とはまるで違う。漸化式には、ストーリーがある」とのことです。

何ということでしょう。たかが学校の授業に、これほどの名場面があるものでしょうか。

学んでいってわかったことに、漸化式には、本当にストーリーがあるのです。単なる名言ではありませんでした。当時に出会ったことのあった、静止した数式とは、性質の異なるものでした。目を閉じると、まぶたの裏に漸化式の躍動が浮かぶようです。

数学を好きになったのは、それからです。
抽象の最たるものである数式に、私が、ドラマティックさを読みとるようになったのでしょう。ドラマティックさというのは、具象に備わることが多いはずのものです。

目に見えない劇的さに感激するような感性を、身につけたような気がします。

もう一人の先生についても書きます。先の話題より、少しだけ新しい時代のことです。高校生としては、もっとも難解な数学に取り組んでいた頃になります。
数学の授業や試験では、基本的な計算問題と、応用問題とがあります。原則としては、計算問題ができれば、応用問題も解けることになっています。実際にはそうでもないことも多く、応用問題には、独特の複雑さがあるものです。

あるときのことです。先生が、A4用紙の大きな山を抱えて、教室に入ってきました。
いわく、「プリントには十問の計算問題が載っている。完了にかかる時間は二分程度である。プリントの山を教室に置いておくから、授業前の待ち時間にでも、朝登校したときにでも、毎日一枚、二枚と、自由に使ってほしい」とのことです。
生徒たちは怪訝な雰囲気になります。私もそうでした。大学入試に向けた難しい応用問題ならまだしも、なぜ計算問題なのか、というものです。

先生は続けます。「二か月も続けていれば、難しい応用問題も自然に解けるようになってくるはずである」と言われます。そんなものなのだろうか、と、私などは思いました。

教室の前方に、計算プリントの山がある生活が始まりました。目に入るところにプリントがあって、解いている間はそれなりに熱中できて、終わってもそれなりに達成感があります。特に意識はありませんでしたが、何となく、計算問題を解く日々でした。
級友と、完了までの時間を競うこともありました。そうした相手に困ることのない集団だったのです。

さて、二か月もすると、本当に応用問題も解けるようになりました。驚くこともあるものです。特に、応用問題に関する準備をしていたつもりはありません。

応用問題を解こうとするときには、いくつかの道筋を、うまくいくまで試していきます。
基本的な計算問題を、それこそ、呼吸をするように対応できると、ある方向がうまくいかないと判断するまでの時間や労力が、比較にならないほど少なく済みます。結果として、多くの道筋を、素早く、集中したまま検討することができます。応用問題をよく解くことができるようになるわけです。
無理に分析してみました。

それからというもの、私は、あらゆる学びや経験を、同じ方針で進めることにしています。計算問題を繰り返し解くような方針です。

分析はどうでもよいのですが、この経験は、私の思想に決定的な影響を与えました。
すなわち、ボトムアップです。

もっとも底にある要素を繰り返して、積み上げていくと、いつの間にか、思いもよらない高さに至っています。当初には想像することもなかった感動があります。
私が生きてきたあらゆる場面において、この気づきは、ただの一度も私を裏切ったことがありません。

今でこそ、トップダウンとボトムアップの繰り返しでできるものがあると、私は知っています。
他方で、年若い時分にボトムアップの思想を感じることができたのは、大変に意義深いものでした。

二つのエピソードをご紹介してきました。漸化式が示すストーリーと、計算問題のボトムアップです。歴史は形づくられたでしょうか。
どちらも、表面にない劇的さを見出すことであったと、評価できるような気がします。

そうして、私は数学を好きでいます。

目に見えない、語られていないドラマティックさは遍く在って、それらは、私が自由に読みとって構わないものなのです。私が自分で読みとった感動は、いかなるものにも制約されない、本当に自由なものです。どんなところからでも、勝手に何かを見出して、自分なりに感動してよいのです。

チェバの定理や、ヘロンの公式にひとりで感動していても、誰からもとがめれる筋合いはないわけです。

私が読書を好きであることにも、似たような話題があるのかもしれません。
他人に考えてもらったことを、丁寧にテキストを追いかけることで、感じ取ります。いつしかたどり着く高みで、思いもよらぬストーリーを勝手に読みとることがあるでしょう。私は、自由に感動していてよいのです。

経験は、記述されることで、歴史になります。
記述は、すなわち、不自然な抽象は、現象を揺るがすことがあります。

微笑ましいことです。

ロックバンド「シド」の楽曲『夏恋』から、引用いたします。
初めての食事の誘いや
バースデイ 返事のありがと
喧嘩の後のごめんなも
鍵つけたの 二度見どころじゃない
現象が揺らいでいます。
勝手に感動していて、構わないのです。


終わりに


勝手に何かを読み取って感動するというのは、論理的ではないので、あまり振りかざすことはしません。
ただ、論理的であることより、真面目だとは思っています。

寒いので、詮無いことを書いてしまいました。馬鹿なのかもしれません。

あと、A4プリントの山は、相当な高さの山でした。